鄭明析(チョン・ミョンソク)。1945年、忠清南道錦山郡(チュンチョンナムド、クムサングン)生まれ。 1995年に月刊「文芸思潮」に登壇した後「霊感の詩」4冊を発表し、韓国詩文学100年史を網羅した「韓国詩大辞典」(2011) に10編の詩が登載された。 以降も、詩作の手綱を緩めることなく、今までに3000編あまりの膨大な詩を発表している。
詩作活動以外にも60年間聖書を研究しながらキリスト教福音宣教会総会長を務め「救いの御言葉」、説教集「命の御言葉」、箴言集「天の言葉、私の言葉」などの宗教書籍もたゆまずに執筆してきた。
また、多様な芸術分野を設立し、韓国国内および韓国国外(イギリス、フランス、ドイツ、アルゼンチンなど)で絵と書道作品を多数展示しており、 平和のための芸術、スポーツなどの活発な文化交流活動も積極的に支援している。
第二次世界大戦が終了した1945年3月、忠清南道(チュンチョンナムド)、錦山郡(クムサングン)、鎮山(チンサン)が 幾重にも重なった山奥の月明洞(ウォルミョンドン)で、七人兄弟の三男として生まれる。
1978年にようやく電気が通ったような山奥だった。毎日食べることの心配をしながら、一日中働かなければない環境の中、 幼い時からとてもひどい貧困を体験した。水っぽいお粥での食事、葛の根を掘りに山に通う日常だった。 小学生の時、昼休みになると学校の水道水でお腹を満たしたりもした。
日中さんざん働いて疲れて寝ようとすると、家はノミや南京虫が出てきてかゆくて眠れない。 兄弟たちは、こんな地獄から出ていければ天国だと話していた。 環境の問題、寂しくて孤独な山奥、食べるためだけに働く生活、運命だと受け入れるには過酷すぎる現実。 このような現実が、人生とは何か?という根本の問題を彼に問いかけて来る。
人はなぜこのように生きないとならないのか?神様はなぜ人生を創造されたのだろうか?なぜ神様は貧富の格差をつくったのだろう。 誰に聞いても、答えは見つからなかった。
その答えを求めて、ひたすら神様にその人生をかけてすがり求めた。 彼は寝る時間をけずって、神様に祈り、聖書を読み、聖書から人生の答えをみつけようともがく日々が続いた。 その道は険しく、困難だった。ある時は聖書をビニールに包み地中に埋めて、諦めてしまおうとした。
しかし再び掘り出しては、繰り返し繰り返し読み直し、その回数は数千読にも及んだ。 その多くの神様との経緯の中で少しずつ、 少しずつ深い神の知恵と真理を聖書から掘り出すようになった。 「親は肉体を生んでくれ、学校の先生は学問を教え、師は人生を教えてくれるが、 神様は私の人生のすべてとなって、私の行くべき道を隣りで導いて下さったのだ。」と鄭明析詩人は語る。
青年の時、戦争の影がしのびよった。神様を信じ、多くの人を教会に導いたし、 お祈りもたくさんしたから自分だけは戦場に行かせないでくださいと神様に痛切に祈った。 しかし、神様を信じる人としてあなたこそが行くべきではないか、と 神の啓示をうけて心を変え、行かせて下さいと祈った。
1966年、1968年の2度にわたりベトナム戦争に従軍した。 爆弾の音が耳が裂かれるほど聞こえてくる。銃の音に心はドキッとして、 髪の毛は天に引っ張られるように立っていた。 戦場で日々命が失われる恐怖と戦い、戦友が亡くなり、地獄を味わいながら、 人生や戦争の絶望的な空しさ、人間のはかなさ、愚かさ、命の尊さを感じるしかなかった。
戦場の泥沼の中にあっても、聖書を手放さず、敵のために祈り、 絶対的状況の中でひたすら求めるべきなのは神様と御子キリストであることを痛切に悟った。
頭を上げて、天を仰ぎながら、自らの命のために考えが深くなっていった。自分の命だとしても本当に自信がなかった。 隣の戦友たちの話が耳に聞こえてくる。国に帰るとき、カラーテレビも、録音機も、冷蔵庫も買って帰っていこう。 私はベトナムの女の人を一人連れて帰っていこう、という話などで、彼らはみな、物質の愛に対する心に膨らんでいった。
“神様、富と栄華もいいけれど、主がおっしゃった通りに本当に全世界を受けてもかえられない命です。 ただ命だけでも生き残って、国に帰れるように助けてください。”
とひたすら祈った。 その時、鄭明析詩人の胸に声が聞こえてきた。
“あなたが全世界をうけてもかえられない命の価値性を本当に悟り、尊いものとして考えているから、 あなたが必ず生きて帰れるようになるだろう。私は全世界のすべての命を主管するエホバなのだ。”
人が耳で聞くことができない悟りの答えだった。鄭明析詩人の目から熱い涙が込み上げてきた。
結局、戦争という死の谷で、何十回の死ぬ瞬間を乗り越え、親、兄弟が待っている月明洞、故郷に帰るようになった。
数回にわたる死の危機から助かったのはまさに神様が見守って下さったからだと告白し、 何回も死ぬ瞬間、境目で神様に助けられたことがある、ということを今も証している。 ただ神様に仕えて生きなければならないという覚悟を決め、神様の教えを伝えようと決意を固めた。 そして、70、80年代、混沌に陥っていた韓国の社会で若者たちが価値観の喪失によってさまよっている姿を見ながら、 若者を救うことが優先だという方向性を見つけだした。
ベトナム戦争で体験した神様の御働きも本に執筆し神様のメッセージを伝える。 キリスト教福音宣教会(Christian Gospel Mission: CGM 通称:摂理)を設立し、 現在、世界50ヶ国に教会を持つ宣教会へと発展している。
美術祭、陶画個人展、アジア青年国際交流展など国内外多数の展示会を通して多方面の芸術活動を繰り広げる中、 文化交流・ 国際交流活動を通じた青少年の育成や、社会福祉活動を通じた社会への貢献にも取り組んでいる。
1999年には、グローバルな文化交流団体であるGACP(Global Association of Culture and Peace)を設立。 GACPは、キリストが説く、寛容・平和・隣人愛の精神に基づくグローバル・コミュニティの形成を目指して、 国・民族・言語・宗教の枠を超え、スポーツ・芸術などの多方面にわたる文化交流を実施している。 現在15ヶ国に支部があり、約30ヶ国の会員を有している。
2001年には、ボランティア活動を行うCGM奉仕団を設立。 イエス・キリストの隣人愛の精神を実践しようと、家庭・医療・社会全般にわたる様々な分野で積極的な奉仕活動を行っている。 活動内容には、自殺予防、施設慰問、無料診療、清掃活動、事故・災害発生時のボランティアなどがあげられる。 CGM奉仕団はその活動と奉仕の精神が認められ、様々な賞を受賞している。
骨を削り、心を削って歩んで来た人生の道。 そこで出会った神様との経緯、そして詩。 人生を深く思索し、ひたすら神様と共に歩んで来た詩人 鄭明析 が霊感によって汲み上げた珠玉の詩の作品の数々をご紹介しています。
人物紹介
鄭明析(チョン・ミョンソク)。1945年、忠清南道錦山郡(チュンチョンナムド、クムサングン)生まれ。
1995年に月刊「文芸思潮」に登壇した後「霊感の詩」4冊を発表し、韓国詩文学100年史を網羅した「韓国詩大辞典」(2011) に10編の詩が登載された。 以降も、詩作の手綱を緩めることなく、今までに3000編あまりの膨大な詩を発表している。
詩作活動以外にも60年間聖書を研究しながらキリスト教福音宣教会総会長を務め「救いの御言葉」、説教集「命の御言葉」、箴言集「天の言葉、私の言葉」などの宗教書籍もたゆまずに執筆してきた。
また、多様な芸術分野を設立し、韓国国内および韓国国外(イギリス、フランス、ドイツ、アルゼンチンなど)で絵と書道作品を多数展示しており、 平和のための芸術、スポーツなどの活発な文化交流活動も積極的に支援している。
環境や飢えとの戦いの中で人生の道を探す。
第二次世界大戦が終了した1945年3月、忠清南道(チュンチョンナムド)、錦山郡(クムサングン)、鎮山(チンサン)が 幾重にも重なった山奥の月明洞(ウォルミョンドン)で、七人兄弟の三男として生まれる。
1978年にようやく電気が通ったような山奥だった。毎日食べることの心配をしながら、一日中働かなければない環境の中、 幼い時からとてもひどい貧困を体験した。水っぽいお粥での食事、葛の根を掘りに山に通う日常だった。 小学生の時、昼休みになると学校の水道水でお腹を満たしたりもした。
日中さんざん働いて疲れて寝ようとすると、家はノミや南京虫が出てきてかゆくて眠れない。 兄弟たちは、こんな地獄から出ていければ天国だと話していた。
環境の問題、寂しくて孤独な山奥、食べるためだけに働く生活、運命だと受け入れるには過酷すぎる現実。 このような現実が、人生とは何か?という根本の問題を彼に問いかけて来る。
人はなぜこのように生きないとならないのか?神様はなぜ人生を創造されたのだろうか?なぜ神様は貧富の格差をつくったのだろう。 誰に聞いても、答えは見つからなかった。
その答えを求めて、ひたすら神様にその人生をかけてすがり求めた。
彼は寝る時間をけずって、神様に祈り、聖書を読み、聖書から人生の答えをみつけようともがく日々が続いた。 その道は険しく、困難だった。ある時は聖書をビニールに包み地中に埋めて、諦めてしまおうとした。
しかし再び掘り出しては、繰り返し繰り返し読み直し、その回数は数千読にも及んだ。
その多くの神様との経緯の中で少しずつ、 少しずつ深い神の知恵と真理を聖書から掘り出すようになった。
「親は肉体を生んでくれ、学校の先生は学問を教え、師は人生を教えてくれるが、 神様は私の人生のすべてとなって、私の行くべき道を隣りで導いて下さったのだ。」と鄭明析詩人は語る。
ベトナム戦争で神様との経緯、命の尊さの悟り
青年の時、戦争の影がしのびよった。神様を信じ、多くの人を教会に導いたし、 お祈りもたくさんしたから自分だけは戦場に行かせないでくださいと神様に痛切に祈った。 しかし、神様を信じる人としてあなたこそが行くべきではないか、と 神の啓示をうけて心を変え、行かせて下さいと祈った。
1966年、1968年の2度にわたりベトナム戦争に従軍した。
爆弾の音が耳が裂かれるほど聞こえてくる。銃の音に心はドキッとして、 髪の毛は天に引っ張られるように立っていた。
戦場で日々命が失われる恐怖と戦い、戦友が亡くなり、地獄を味わいながら、 人生や戦争の絶望的な空しさ、人間のはかなさ、愚かさ、命の尊さを感じるしかなかった。
戦場の泥沼の中にあっても、聖書を手放さず、敵のために祈り、 絶対的状況の中でひたすら求めるべきなのは神様と御子キリストであることを痛切に悟った。
頭を上げて、天を仰ぎながら、自らの命のために考えが深くなっていった。自分の命だとしても本当に自信がなかった。 隣の戦友たちの話が耳に聞こえてくる。国に帰るとき、カラーテレビも、録音機も、冷蔵庫も買って帰っていこう。 私はベトナムの女の人を一人連れて帰っていこう、という話などで、彼らはみな、物質の愛に対する心に膨らんでいった。
とひたすら祈った。
その時、鄭明析詩人の胸に声が聞こえてきた。
人が耳で聞くことができない悟りの答えだった。鄭明析詩人の目から熱い涙が込み上げてきた。
結局、戦争という死の谷で、何十回の死ぬ瞬間を乗り越え、親、兄弟が待っている月明洞、故郷に帰るようになった。
数回にわたる死の危機から助かったのはまさに神様が見守って下さったからだと告白し、 何回も死ぬ瞬間、境目で神様に助けられたことがある、ということを今も証している。
ただ神様に仕えて生きなければならないという覚悟を決め、神様の教えを伝えようと決意を固めた。 そして、70、80年代、混沌に陥っていた韓国の社会で若者たちが価値観の喪失によってさまよっている姿を見ながら、 若者を救うことが優先だという方向性を見つけだした。
ベトナム戦争で体験した神様の御働きも本に執筆し神様のメッセージを伝える。
キリスト教福音宣教会(Christian Gospel Mission: CGM 通称:摂理)を設立し、 現在、世界50ヶ国に教会を持つ宣教会へと発展している。
文化交流、奉仕活動を通して世界平和に貢献
美術祭、陶画個人展、アジア青年国際交流展など国内外多数の展示会を通して多方面の芸術活動を繰り広げる中、 文化交流・ 国際交流活動を通じた青少年の育成や、社会福祉活動を通じた社会への貢献にも取り組んでいる。
1999年には、グローバルな文化交流団体であるGACP(Global Association of Culture and Peace)を設立。 GACPは、キリストが説く、寛容・平和・隣人愛の精神に基づくグローバル・コミュニティの形成を目指して、 国・民族・言語・宗教の枠を超え、スポーツ・芸術などの多方面にわたる文化交流を実施している。 現在15ヶ国に支部があり、約30ヶ国の会員を有している。
2001年には、ボランティア活動を行うCGM奉仕団を設立。 イエス・キリストの隣人愛の精神を実践しようと、家庭・医療・社会全般にわたる様々な分野で積極的な奉仕活動を行っている。 活動内容には、自殺予防、施設慰問、無料診療、清掃活動、事故・災害発生時のボランティアなどがあげられる。 CGM奉仕団はその活動と奉仕の精神が認められ、様々な賞を受賞している。